納得!朝三暮四

色々書きます

算数だけで解ける(解けない)2

これも前回の記事の問題を出した先生が生徒に出題していた。問題と答えは知っていたが、解き方は知らんかったので自分で解くことにする。


1日考えてダメだったので、模範解答を見る。あ~~~~~~~上手いな~~~~~~

まあこれもそんなことしなくてもx+√3x=10とおけばよい。しかもxを求めずとも後は式変形だけで面積に持っていける。高校生ならそれができれば十分だろう(教えてた生徒は中1で三平方習ってないから厳しそう)。

悔しいので別解を作ろう。多分その別解もこんだけバズった問題なら数多の人間が思いついているのだろうが、それでもやろう。算数になんか負けないぞ。

まず数学で答えを求めると、25になることがわかります。

わかっているのは長さだけなので、とりあえず面積の次元に持っていきたいです。10を一辺とする正方形でも良い気はしますが、どこに埋め込んでもスッカスカなのが気になります。まあ4倍だから仕方ない。なので、10を対角線とする正方形にしましょう。これは正方形の上下に正三角形を作って、正三角形の孤立している4頂点を結ぶとできます。この正方形の面積は10*10/2=50なので、この中には元の面積の2倍である、正三角形4つと正方形2つが入っていることになります。明らかに正三角形4つと正方形1つが入っているので、残っている二等辺三角形4つが正方形1つの面積と等しくなることを言えればよいです。

言えればいいんだよ。

数時間の死のもと、やっていきます。とりあえずこの二等辺三角形の角度を求めましょう。15°, 15°, 150°になる。人間は等しい長さを見ると、重ね合わせてみたくなります。なるんだよ。とりあえず2つの二等辺三角形を等辺で重ねます。

重ねたから許してくれ。

数分の死のもと、やっていきます。あと2個二等辺三角形が残っているので、とりあえずこれもくっつけたいです。そのままくっつけると間が空いてしまう(なんかイヤ)なので、等積変形してやって、さっき重ねた等辺の先に同じ長さを取って孤立頂点と結びます。あとはこの四角形の面積を求めればよい。よいんだ。この四角形は対角線が直角に交わってるので、対角線×対角線÷2で面積が求まります。等辺を重ねたほうは、明らかに2x(xは正方形の一辺、表記の問題であって数学は使わんから許せ)。もう一つの対角線は実は、最初に重ねた二等辺三角形の、重ねてない等辺と正三角形をなす(360°-150°*2=60°)ので、x。よってこの面積は2x*x/2=x^2で、正方形の面積1つと等しい。ゆえに求める面積は25。

ここまで考えてようやく途中過程をいくらかスマートにする方法が見えてくる。ようはこの15°, 15°, 150°の二等辺三角形は算数の範囲で面積を求められるのだ。等辺を底辺とすれば、高さは30°,60°,90°の直角三角形を使って高さが等辺の1/2であることがわかる。ここから面積をx^2 /4と求めればよかった。これ単体で出されてもなかなかに面白い問題だなとは思う。

教育に携わってる者として、「この問題を解くこと」にいくつか考察をしたい。この問題にはいくつか解き方がある。
A. 算数を使った模範解答
これは見えるか見えないかが強い解答だと思う。パズル性が強く、逆にいえば既存の方法学習で対応できない解法である。
B. 数学を使った解法
三平方の定理を使って長さを求める。数字は汚くなったりするが、直感的であり、既存の方法学習で対応できる。それゆえに、三平方の定理を学ばないと不可能である。
C. 私が行ったような、苦しみの算数
スマートな解答が思いつかない、あるいはそれを制限されたときにやる方法。袋小路に入るし、遠回りもする。ある程度「見えなく」ても解ける。

現在までの学校での数学教育がB. を推し進めているのは理解しやすい。高度な道具を与えてそれを使えるようになるのを理想とする。逆に難関中学入試では、むしろA. のような発想を重視している感じが強い。算数・数学だけでなく、あらゆる問題はたいがいこの発想と道具が両立してこそ解決に至る。

しかし、この「発想力」はいかにして身につくのか?考えつく、今までに言われてきてそうなこととしては、
1. 考える
2. いっぱい解く
あたりだろうか。発想力よくわからなすぎて、発想力に対するメタな道具が全然ない。発想力ってなんなんだ。1.考えるは尤もらしさが強い。考えつくには考えるしかない。答えを見ずに考える過程が多ければ、それだけ発想に近づく。2.のいっぱい解くことで、その中の思考を早めたり、ショートカットを覚えることができる。

しかし、結局これらは「発想が有限」であることを仮定にしてるに過ぎない気がする。そしてそうだとしても、これは教育が「扱える有限」なのだろうか?作問するのも人間であるから、その発想も有限であることは、確からしい。しかし悲しいかな人生には優劣がつきものだ。そもそも単純に生きてきた年数が違う。そして作問者はだいたいにおいて発想に優れた人間である。上記の問題も、松丸さんが小学生のときに作った問題らしいから、この時点で2n歳のおっさんの発想力に勝っている(ような気がする)。

そうか、得てしてこういう発想力に優れた人間エピソードにあるあるっぽいこれも解法の1つなのかもしれない。つまり、
3. 問題を作る
である。問題を作る側に回る経験は教育においてほとんどさせてもらえないが、たいがい頭のいいヤツはそういうエピソードを持ってる。なんならワシもやってた。作り手のキモチを理解するには作問するのが速いのかもしれない。まあ実際にこれやってみる(小学生~中学生あたり)と、発想の問題を作れる人間はそういない。たいがいカルト知識問題を作るか、なぞなぞになってないなぞなぞになる。解けた人数によって点数を変える(全員正解・0人正解は0点で正解者数が少ないと高い点みたいな)みたいにしても、まあだいたい相手チームの学年から逆算した知識問題に落ち着く。つまりは、そもそもの視点として「発想」と「道具」がある(というのもこちらの単なる教育哲学でしかないのかもしれないが)ことが、欠如しているのかもしれない。その視点を与えることに「算数パズルを考える、考えて考えてわからなかったら答えを見る」みたいなことが役立つのかもしれない。あるいは、直接的にその視点の存在は教えておいたほうが良いのかも知れないけど(体得には実際に上述の作業が必要なのでしょう)。

しかし、私達が育てた結果として得られるのが「A.で解ける」人間であってもよくない。厳密には「A.でしか解けない」ではダメである。B.の教育を受けてきた子どもたちにとっては、A.の提示はしばしば「A.が道具」の結果をもたらしかねない。こうなると、結局与えられる長さが変わった問題しか解けなくなる、ではダメである。ここが難しい。マジでわからん。発想を鍛えるために「問題を解かして、A.を見せる」は発想を鍛える方法として良さげに見えて、実は子どもの側がB.の教育として受け取っているかもしれない。あるいは受け取らざるをえない子どももいるのかもしれない。複数解を用意してもあまり結果は変わりそうにない。もう少し意地悪して、解答を見せたあと、別解を作らせるとかでも良いのかもしれない(私がやった)が、B.の受け取りをしてる人間は結局それも「複数の発想」ではなく「複数の道具」として捉えるかもしれない。

そもそも、私は本当に発想を学んでいるのだろうか?実際、発想の乏しさからかなり「道具的な発想」を使っている。「長さは二乗すると面積になる」だとか「同じものは重ねる」とか「できるだけ元のものに近づけるようにする」とか発想ではあるが、ある程度どの場面でもそれなりに有効な「道具的な発想」を持っている。それ以外の発想は本当に乏しい。もしかしたら、A.の解法にもそういうのがあるのかもしれないが、私にはそれを「道具として」扱えない気がする。

結局この「発想力」が自分にもよくわかってないし、それを伝える方法もわからない。「道具的な発想」を鍛えることは、学校教育を受けてきた生徒にもある程度できそうな気はする。それを突き詰めていくと、実はA.の解法が作り出せる人間になったりするのだろうか。弊害的に語っているが、学校教育にすべての問題があるわけでもないはずだ(実際、この問題に関してはB.の解法で解けるだけで十分なはずだ)。仮に、学校教育が全く変わるなり、あるいは学校教育を全く受けていない子どもに、「発想力を伸ばす」教育ができるのか?道具なきところに発想もないのは尤もらしそうである。

教育に携わってそろそろ1年は経ってる気がするが、まだまだ解けない。そもそも道具を教えるのもまだまだクソ下手なのではあるけれど。